としちゃんと、大切な家族と

大腸癌と診断された父との日々の記録

【1日目】としちゃん、大腸癌と診断される

やっと気分が落ち着いてきた。

でもやはりまだ信じきれない。信じたくない。

大好きで尊敬している父親だから、生きた証を作りたくて、生き様を自慢したくて、親の偉大さを共有したくてブログを始めることにしました。

見てくれる方が少しでもいれば幸いです。

 

 

 

 

タイトルには1日目と書いたが、少し日は遡る。

 

7月のとある金曜日の夜、僕はアニメを見ていた。

大阪で会社員をしており土曜日と日曜日は休みであるため、仕事が終わり家に帰るとギター片手に歌ったり、youtubeでゲーム実況動画を見たり、アニメを見たりして土曜日を迎える。

 

23時頃、スマホが鳴った。

母からの電話だった。

母とはよくLINEで連絡を取り合っていたが、電話がかかってくることは珍しかった。

電話に出ると、母は狼狽した様子だった。

 

「もしもし。今日22時頃にとしちゃんが痛いって言いながらお腹を抱えて倒れちゃった。」

 

としちゃんとは僕の父のことである。

僕も幼い頃は父をとしちゃんと呼んでいた。

母は続けて、

「だからね、救急車を呼んで病院に連れて行ってもらったよ。今私も付き添いで病院に来ています。これからお医者さんに診てもらうのだけど、この後も状況を報告したいので、まだ起きていてもらえる?」

僕は了解し、電話を切った。

電話越しの母の声色や父が倒れた事実が脳裏に焼き付き、不安でいっぱいだった。

 

深夜1時を回り、母から再度電話がかかってきた。

「しばらく入院してCTスキャン、レントゲン、輸血をするってさ。やはりお腹が悪いらしいよ。最近だいぶ瘦せてきていたし…しばらく我慢していたんだろうね。」

 

父は最近までうつ病だった母に対して、一緒に散歩をしたり、喫茶店に行ったり、ラジオ体操をしたりと、メンタルケアをしてくれていた。

「頑張りすぎたんだろう。疲労が溜まって体調をくずしたのだろう。」その時はそう思っていた。

 

 

日曜日、母からLINEで連絡が来た。

 

としちゃんの状況

お尻がズキズキして座れない

尿がうまく出ないため、管をさし込みそこから排尿する

時間つぶしはラジオのみ

かわいそうだ

 

僕は心配になり、父に電話したが応答はなかった。

嫌な予感がした。

 

 

月曜日、その時が来た。

僕は化粧品メーカーでいつものように研究開発の仕事をしていた。

18時を回ったあたりで母から着信があった。

 

電話に出てみると母は泣いていた。

震えた声で一生懸命僕に話してくれた。

「としちゃんの診断結果をお医者さんから聞いたよ。大腸癌だってさ。それも末期の。最悪。」

その後も、

  • 癌細胞が大腸を圧迫し、便が出にくくなってしまっている
  • 癌は骨にも転移している
  • お尻がズキズキしているのは肛門付近に腫瘍が集中しているため
  • 今後治療するが放射線治療、肛門の除去、人工肛門を作る手術等を伴う
  • しばらくは口からごはんを食べることができず、点滴によって栄養を摂取する

というようなことを話してくれた。

そして、これらの事実を突きつけられた母は医者に聞いたそうだ。

「父は、もう長くないのでしょうか。」

医者は告げたという。

 

「長くて半年でしょう。」

 

母は僕に泣きじゃくりながら心の内をさらけ出した。

 

なんであんなに優しいとしちゃんがこんな目に会わないといけないのか。

もっと気にかけてあげればよかった。

来年から受け取れる年金をすごく楽しみにしていたのに。

コロナ禍のせいで面会できないのが辛い。

 

僕は全てを聞き「またいつでも話を聞くよ」と言い電話を切った。

頭が真っ白になった。

 

家に帰り、僕は晩ごはんを作ろうとキッチンに立ち食材を並べたが、無気力で包丁を手に取ることができなかった。

その日買ってきた食材は皮肉にも父の好物である鶏もも肉だった。

 

キッチン前の4歩分のスペースをうろうろし続け、結局ごはんは作れなかった。

 

ベッドで横になりスマホで音楽を流した。

斉藤和義の『歌いたいのバラッド』。

 

今日だってあなたを思いながら

歌うたいは歌うよ

ずっと言えなかった言葉がある

短いから聞いておくれ「愛してる」

 

 

その日僕は父の傍にいてあげられなかったことを悔やみ、泣き、寝ることができなかった。